コンビニのレジ横で、おにぎりを握りしめたまま立ち尽くす「かに」を想像する。そこへ、口のうまい「さる」が寄ってきて、「それ、今食べたら終わり。でも“種”に替えれば、あとで実りが増える」と囁く。投資話・副業勧誘・ポイント経済圏のテンプレみたいな甘い未来図。
かには渋々交換し、柿の木を育て、いざ収穫の局面で“プラットフォーム強者”のさるに総取りされる。ここまで、弱者が手間を引き受け、強者が果実を回収する構図があまりに現代的だ。
で、問題は後半。『さるかに合戦』の怖さは、かにが損をしたことより、青柿という“踏み絵”を投げつけられ、命まで落とす(あるいは深手を負う)ところにある。そして子が復讐する。栗・蜂・臼・牛糞といった助っ人が集まり、役割分担し、相手の家に「仕掛け」を施す。スカッとするのに、背筋も冷える。正義の連帯が、いつでも私刑の連帯に反転しうるからだ。
これ、SNSの炎上とそっくりだ。被害の切り抜きが流れ、通報ボタンより速く、引用と断罪が回り始める。加害者は一瞬で「物語の悪役」に固定され、関係ない人まで参戦する。正義の大合唱は気持ちがいい。だが熱量が上がるほど、事実確認より“筋書きの整合性”が優先される。柿の実を誰が育てたかではなく、「いま、誰を懲らしめるか」が中心になる。 だから近年、この話は“丸く”される。
私たちは暴力を見たくないし、子どもに見せたくもない。そこはよく分かる。 ただ、現実のトラブル処理で「物語の後半」だけをコピペすると、だいたい失敗する。報復が先に立つと、次は相手が被害者を名乗り、さらに別の“連帯”が生まれる。
やり返しても、タイムラインの柿は甘くならない。甘くなるのは、怒りの味だけだ。
ここで一度、昔話法廷みたいに考えてみる。さるが罪を認め、検察が重罰を求め、弁護側が「生きて償うべきだ」と訴える——この設定は、私たちの胸の中の二つの欲望をくっきり分ける。
ひとつは「落とし前」。もうひとつは「再発防止」と「回復」。どちらも正しいのに、順番を間違えると、正しさが凶器になる。
現代の教訓を一つだけ引き取るなら、「種を渡す前に、ルールと出口を決めろ」だ。交換(契約)には説明責任が要るし、収益配分には透明性が要る。
困ったときの第三者(相談窓口、仲裁、記録、証拠)があれば、栗も蜂も牛糞も、そもそも集結しない。連帯は、報復のためだけじゃなく、生活を取り戻すためにも使える——柿の木の下で育てたいのは、敵を倒す武勇伝より、「次はだまされない」制度のほうだ。
(ジャーナリスト 井上勝彦)
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大規模修繕工事新聞 2026-3月 195号





